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住職の日記

仏教における「迷惑」のほんとうの意味

今年の夏は、すでに暑い日が続いています。
みなさま、お元気でお過ごしでしょうか?
太陽の恵みは、たいへんありがたいのですが、こうも暑いと日差しも気温も「迷惑」と感じてしまうかもしれません。

この「迷惑」ということばも、じつは仏教に由来するとされています。

今回は仏教における「迷惑」の捉え方についてお話していきます。

「迷惑」の意味

迷惑とは、他人の行為により、不快になったり困ったりすることや、その様子を表すことばですよね。

  • 迷惑駐車
  • 迷惑メール
  • 迷惑営業


など、さまざまな行為に対して用いられます。
最近ですと「迷惑系ユーチューバー」が社会問題になったのも記憶に新しいところです。

どれも、相手を不快にしたり、困らせたりする行為です。

しかし、昔はその不快や困る原因が自分自身にあるときでも「迷惑」を使っていたそうです。

仏教における「迷惑」とは

仏教における「迷惑」とは、「道に迷い、心が戸惑うこと」を意味しています。

それは、執着をはなれた「さとり」の対局に位置するものでした。
もともとは、自分自身の心のうちを表すことばが、次第に外から受ける影響と言う意味になったとされます。

前回、仏教における「自由」と同様に、仏さまの教えでは外的要因や他人ではなく「自分自身を内観すること」を重視しているのがわかりますね。

 

 

迷惑をかけない」よりも大切なこと

浄土宗の祖である法然上人が師と仰ぐ中国の僧・善導大師は、自身を”凡夫”とされました。
凡夫とは、煩悩によって罪を犯し、迷い(迷惑)を持った人間を指します。

法然上人も「自身が凡夫であると自覚を持つことが大切」と説かれました。

現代の私たちは「社会や他人に迷惑をかけないこと」が、社会で生きていくうえで重要な価値観となっています。子どもを育てるときも「みんなの迷惑にならないように」と注意したことがあるのではないでしょうか。

また、意図せず他人を不快にさせたり、困らせてしまった場合には、「他人に迷惑をかけるな!」と非難されることがあります。

しかし、注目していただきたいのは、善導大師も法然上人も「凡夫であることが悪い」とはおっしゃっていないことです。むしろ、「お互いに迷惑をかけ合いながら生きている」と自覚することを私たちに伝えてくださっているのだと思います。

親の葬儀は「迷惑」なのか?

私は僧侶という立場がら、ご年配の方々から葬儀のご相談を受けます。
その際、必ずといっていいほど「自分の葬式で子どもたちに迷惑をかけたくない」とおっしゃいます。

最後まで子どもに迷惑をかけないというのは、親として立派な心掛けだと感心する一方で、すこし寂しくも感じます。

葬儀をお任せすることは、本当に「迷惑」なのだろうか?と思うのです。

親子の関係がどのような関係か…人それぞれでしょうが、親が子を思うように子が親を思う気持ちだってあるはずです。親の一方的な思いで、ふつうの葬儀も行わず、親が存在しなかったかのように見送ることを強いるのは、いかがなものかと思うのです。

あとから「親は簡素でいいと言っていたけど、きちんと見送りたかった」と子どもの側が後悔することもあるのではないでしょうか?

葬儀とは、亡くなった方のためだけに行う儀式ではありません。家族が、大切な人を亡くしたことを理解し、心の整理をつけるための場でもあります。

家族として持ちつ持たれつ過ごしてきたのだから、「迷惑をかける」と捉えず「お任せする」と考えられたら、すこしは気持ちが軽くなるのではないでしょうか?

ある程度、ご自分の葬儀に道筋をつけいただき、「いざというときは、お任せしますね」と、子供たちに委ねてみては?とアドバイスしています。

「迷惑」を寛容できる社会へ

私たちは、たくさんの人と支えあって生きています。

「人のいやがることをしない」という心がけは大切ですが、「絶対に迷惑をかけない」ことは目指さなくてもいいと思います。

だれしも、意図せずに迷惑をかけなが生きています。
他人から、迷惑をかけられることも日常茶飯事です。

その都度「迷惑をかけるなんて最低だ!」と相手を責めるのか、「お互いさま」と受け止めるのか。これは、自分が迷惑をかけてしまったときに、相手にどうしてほしいのかも同じです。

自分がだれかにかけてしまう迷惑も、他の人から被る迷惑も受け止められたら、社会全体が今よりも寛容になるのではと思っています。

自分は人に迷惑をかけることもある凡夫だ。 だから、周囲に感謝の気持ちをもとう。

そんな風に考えられたら、理想的な人間関係や社会を作っていけるのではないかなと思い描いています。