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住職の日記

仏教における「自由」の意味は?

私たちの暮らしの中では、仕事でも家庭でも思いのままにならないことばかりです。

社会の常識、自分をとりまく環境、人間関係…そういった自分を束縛するものすべてから逃れて「自由になりたい!」と思う瞬間はだれにでもありますよね。

私たちが日常的に使う「自由」ということばは、通常、人間が制約や束縛から離れ、自己決定や自己表現を享受できる状態を表すものです。しかし、仏教の視点から見ると、この言葉の意味は少し変わってきます。

今回は仏教における「自由」のことばの意味について考えていきます。

現代の「自由」の概念は明治時代から

明治時代に西欧からたくさんの書籍が入ってきたときに、日本人はそれを漢文に訳しました。

当時の人たちは「西欧の言葉の意味を漢字で表せる」と考えたからです。

旧・一万絵札の肖像画で有名な福沢諭吉は、明治時代に活躍した啓蒙思想家でもあります。

彼は、「Liberty」「Freedom」というキリスト教の信仰から生まれたことばを「自由」と翻訳しました。

どちらも「自由」と翻訳されましたが、「Freedom」は何事にも規制されていない状態や免除を、「Liberty」は抑圧や束縛からの解放や勝ち取った自由を表しているそうです。

さらに当時の列強諸国においての自由は、「イエス・キリストと同じ正しい心で判断したことなら、なにをしてもよい」という拡大した解釈がなされていました。

非キリスト教社会に対して押しつけがましいことから、積極的自由ともいわれています。

それは「イエス・キリストと同じ心を持てない人間には自由はない」という思想にもつながり、キリスト教圏以外の国に対し、強制的な不平等条約や植民地支配をすすめる根拠となっていました。

本来のキリスト教の教えでは「基本的には社会のルールを守らなければならない」というLibertyやFreedomの成立条件が欠けたまま、伝えられたことで「自由=なにをしてもよい」という「自由のはき違え」につながってしまったのかもしれません。

LibertyやFreedomが「自由」と翻訳されて以降、外的要因から束縛されないという意味で使用されることが多いことばになりました。

「自由」ということばは仏教が由来だった

社会の常識や身分などに縛られないことを福沢諭吉は「自由」と翻訳しました。

しかし、もともと「自由」とは「自らに由る」とあるように、自らの意志をよりどころにすることを意味した言葉であり、執着から解き放たれた状態である「解脱」を表すこともあります。

つまり、仏教由来の「自由」とは外的な要因ではなく、自分の心のあり方を表すことばでした。

「自らに由る」ことの大切さを、お釈迦さまは「自灯明・法灯明」の教えで説いていらっしゃいます。

お釈迦さまの「自灯明・法灯明」の教え

お釈迦さまは亡くなられる直前に、弟子たちに対して「自灯明・法灯明」という教えを説かれました。

自己の欲望や考えに囚われず、無我の状態に至ること。
これが真の自由とされています。

しかし、ことばで表すほど簡単なものではありません。

私たちは日々、自己中心的な思考や行動に引き寄せられます。
そこから解放されるためには、自己の無常性を認識し、さとりを開くことが求められます。

「自灯明・法灯明」とは
「さとりを求めるには人任せではなく、自ら(自灯明)と仏の教え(法灯明)をよりどころにしなさい」と弟子たちに伝えた教えです。

お釈迦さまの教えを指針に、自己を確立していくこと、すなわち「自らに由る」自己確立が大切とおっしゃっています。

「自由」は内側から湧き上がるもの

私たちは、外的な原因でうまくいかないことがあると「もっと自由ならいいのに!」と、外部に自由を求めがちです。

しかし、お釈迦さまの教えでは自由とは「自らに由る」もの。

つまり、自由は内側から湧き上がるものです。

この観点からすると、「自由」は外部の世界が私たちに与える何かではなく、自分自身の内側から生まれ出る真実の理解と、それによって得られる深い平和を表しています。

自己中心的な欲やわがままから解放された自由な状態、無我の状態に達することで、全ての存在を平等に見ることができるようになるでしょう。

社会や他者に望む「自由」は望んでも手に入らないものばかりです。

望みがかなわなければ「社会が悪い」「認めてくれないあの人のせいだ」と不平不満はさらに募るばかりです。

自分以外から与えられる「自由」を求めるのではなく、自分の内側から湧き上がるものに「自由」を見いだす方にシフトできれば、心が穏やかになれるのではないでしょうか。

「自由」の意味を改めて考えてみよう

現代では、それぞれの立場で「自由」を求めた結果、対立や断絶が起きていることも否めません。

意見の違いによる対立ではなく、それぞれの立場を尊重しあえることで解決できる問題があると思います。

私たち自身も他者も、皆、生と死の法則に服し、互いに依存し合って生きている存在です。だからこそ、私たちは他者を慈しみ、無私の愛を実践できるという、仏教的な視点が社会に必要なのではないかと考えています。