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住職の日記

宗教における感覚と言葉の教え

お寺にお参りすると、心が清められたように感じる。
でも、すぐに日常の心に戻ってしまう…。


そう感じたことはありませんか?

とくに、熱心な信仰心がなくともお寺や神社にお参りするのが好きだという人がいます。

寺社仏閣の歴史、美術に魅力を感じる人。
寺社仏閣めぐの周囲を散歩がてら近隣のグルメを楽しみたい人。
パワースポット巡りを楽しんでいる人。

他には、アニメや漫画の”聖地”として巡る人や、御朱印を集めて回る人などさまざまな目的でお寺や神社へ足を運ぶ人がいます。

目的はさまざまですが、お寺に足を運ぶことで
「気持ちがよい」
「すがすがしい」
「ありがたい」

…など、普段とは違う感覚を味わうことができるでしょう。

近年は「パワースポット」として寺社仏閣が注目されています。
ふだんの生活では感じることのできない、感覚を多くの人が求めているからかもしれません。

そんな特別な感覚をもたらしてくれるお寺や神社は、やはり特別な場所なのです。

宗教の本質とは

話は変わって、宗教とはなんでしょう。

つきつめていくと、宗教とは感じるものです。

言葉やだれかの説明によって理解するものではありません。自分の身体の中心で感じるものです。

「神仏の光に照らされている」

「人知を超えた智慧を感じる」

「深い慈悲の心に包まれている」

こういった体験は頭の中で考えてたどり着くものではなく、自分自身の体の中心から感じてはじめて理解できるものです。

このように、感覚から宗教をとらえることはとても大切です。

そして、それと同じくらい言葉による教えもまた大切です。なぜなら、感覚で体験するだけで終わってしまうと、時間の経過とともにその感動が薄まってしまうからです。

また、体験が強烈であればあるほど、記憶は変質してゆくかもしれません。そこにエゴによる判断や操作が入り込んでしまうからです。

「あれはホンモノであった」
「自分は正しいものに出会った」
「だから自分は特別な存在だ」

いつの間にか、すばらしい体験が自分に都合のよいものに書き換えられてしまうこともあります。

ホンモノとニセモノ
正しいものと正しくないもの

本物を知っている私とそれを知らない他人

知らず知らずのうちに、自分のエゴを強めて心が不純になり、純粋な宗教感覚が失われてしまいます。
ときにそれが、大きな事件の火種となってきたことはみなさんもご存知かと思います。

宗教=怖いモノ というイメージはこんなところからできあがっているのかもしれません。

言葉による教えの大切さ

宗教的感覚を得ても、おごり高ぶらずにいるために大切になるのが、言葉としての教えなのです。

仏典のことばや聖賢の教えを学び、現在の自分の姿や心と照らし合わせます。
そのことによって、私たちは再び謙虚な心を取り戻し、新しい感覚を保つことができるのです。

私たち僧侶は何十年にもわたって同じお経を読み続けます。
毎日、唱えている言葉が、実は大きな意味を帯びていたことに気づかされることがあります。

宗教家ではないふつうの方々が難しい経文に通じる必要はありませんが、書物や聖賢のことばに積極的に触れることをおすすめしています。

僧侶が読むお経と同じく、すぐにはわからなくてもいつの日か自然に理解できるときがやってきます。

ご自身の体験した感覚と言葉による教えが一致したとき、より深い感動を得られることでしょう。

言葉としての教えは時を超えて、私たちに気付きを与えてくれます。
それを長い年月の間、たくさんの人たちが経験してきたからこそ宗教に関する書物や言葉による教えが現代にも受け継がれてきたのでしょう。

言葉による教えの大切さは、私たち先人から受け継がれてきた尊いものなのです。

感覚への理解を深めるために

冒頭で紹介した

お寺にお参りすると、心が清められたように感じる。
でも、すぐに日常の心に戻ってしまう…。

これも、けして悪いことではありません。
お寺にお参りして「心が清められた」という感覚は確かに存在したからです。

しかし、人の感覚はうつろいやすいもの。
どんな感動も時を経ることで薄らいでいくのもまた確かなことです。

寺社仏閣めぐりを楽しんでいる方、寺社仏閣で触れる特別な感覚が好きな方はぜひ、言葉による教えにも触れる機会をもってみてください。

言葉による教えに触れることで、感覚はより研ぎ澄まされていきます。

今までより、もっと寺社仏閣めぐりが充実すると思いますよ。