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住職の日記

浄土宗の祖 法然上人の教え

法然上人は、戦乱が多く起こった平安後期から鎌倉時代初期に活躍した僧侶です。

日本浄土宗を大成した浄土宗の宗祖として知られています。

それまでの日本仏教は中国仏教を中国で学び日本国内に伝えると言う形式でしたが、浄土教の御教えの中から、肝要な部分を選び取り「浄土宗」として開宗された日本独自の仏教です。その為、現在お念仏を申す宗派は多々ありますが、すべては法然上人から始まった為、「お念仏の元祖さま」とも言われています。


世界史的な視点から見ても、他の宗教家たちとは異なる宗教観を持った偉大な大宗教家としても有名です。

宗教の概念を覆す教え

それまでの宗教による教えとは

「わたしは高みにのぼり、永遠なるものを知った。あなた方も努力を重ね、わたしのもとまで登ってきなさい。わたしがあなたたちを正しく導こう」というものが主でした。

宗派により、天国・神の国・極楽などと呼び方は違えど、苦しみのない世界にたどり着くためには、厳しい戒律や教えを守る必要性が説かれていました。

神の啓示に基づくものであれ、個人の自覚に基づく教えであれ、宗教の基本構造は西洋問わずこういった特徴がありました。

しかし、法然上人はこの構造を土台からひっくり返してしまったのです。

法然上人は「わたしはあなた方と同じ場所にいます。高みではなく、最低の場所で暗闇の中で手探りしながら生きています。だが、こんなわたしでさえ救ってくださるのが阿弥陀仏、浄土の教えです。さぁ、あなた方もわたしと一緒に救われましょう」と説きました。

選ばれた敬虔な者だけが救われる

厳しい戒律を守った者だけが救われる


といったこれまでの宗教とは違い、だれにでも救いは訪れると説いたのです。


そんな教えにたどり着いた、法然上人の人生を振り返ってみましょう。

父の遺言により出家

法然上人が生まれたのは平安時代末期、幼い頃は勢至丸と呼ばれていました。
勢至丸が仏門に入るきっかけは9歳のときに起こった事件にあります。

美作国久米南条稲岡庄(現在の岡山県久米郡久米南町)の豪族だった父・漆間時国は政治的対立の結果、夜討ちを受けます。

深手を負った時国は亡くなる直前に「敵を恨んではならない。かたき討ちをすれば、その者の子がお前を恨んで同じことが繰り返される。出家して父の菩提を弔え」と遺言を残します。

父の遺言に従い、母親の血縁を頼って、現在の岡山県と鳥取県の県境付近にある菩提寺という寺に預けられ、叔父にあたる勧覚という僧侶のもとで仏教を学ぶこととなります。

その後、才能を見出され当時の仏教の中心地である比叡山延暦寺で正式に出家し、天台宗の僧侶となりました。

法然の名前の由来

勢至丸は若いうちから才覚を発揮し、僧侶として指導者を目指すように薦められますが

父の供養をし、静かに仏教を学ぶことを選びます。

比叡山でも奥まった人の出入りが少ない西塔黒谷というところへ行き、慈眼房叡空に師事します。若くして栄達の道を捨て、仏道を究める道を自然と選んだ勢至丸に感銘を受けた叡空は、「法然道理(あるがままの姿)」から「法然」、そして師であった源光と叡空から一文字をとって「源空」と命名しました。これが法然房源空の由来です。


しかし、世は飢饉や戦乱が頻発する荒廃した時代。疲弊しきった人々は修行はままならず、難解な仏教の教えでは人々を救えないと判断した法然上人は救いの道を尋ねて、京都や奈良の寺院をめぐりますが満足する答えは得られませんでした。

称名念仏への確信

比叡山に戻った法然上人は自身を仏教理解の乏しい存在である「凡夫」とし、荒廃した時代に生きる人々は等しく凡夫ではないかと考えに至ります。

そんな中で、中国唐時代の僧・善導大師(613-681)が著した『観無量寿経疏』という書物の中で「一心にもっぱら阿弥陀仏の名をとなえ、いついかなることをしていても、時間の長短に関わらず、常にとなえ続けてやめないことを正定の業という。それは、阿弥陀仏の本願の意趣に適っているからである」との一文に出会います。

それこそが、凡夫もお念仏により浄土への往生がかなうという称名念仏への確信につながりました。

広まる法然上人の教えと宗教摩擦

その後、比叡山を下りた法然上人は京都東山に住し、人々に浄土の教えを説きました。
飢饉や戦乱など苦しいことが多い世の中において「念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できる」ことを知った人々は、貴賎・男女を問わず法然上人の教えに喜んで帰依することとなりました。

しかし、これに対して比叡山、興福寺などが強く警戒、抗議します。
さらに、上人の教えを誤って理解した者たちが、他宗をそしるなどしたこともあり浄土宗と他宗の有力寺院との間に摩擦が生じてしまいます。

元久元年(1204)、延暦寺の僧侶は念仏を差し止めることを同寺のトップであった真性に申し入れ、法然上人はその対応のため、弟子たちに行いを改めさせる文章を作り署名を求めました。このできごとは元久の法難と呼ばれます。

しかし事態は収まらず、今度は、法然上人の2人の弟子が後鳥羽上皇に使える侍女を勝手に出家させる事件が発生。これに上皇が怒り、建永2年(1207)、二人の弟子は死罪、法然上人は四国への流罪が決まります。このできごとは、建永の法難と呼ばれます。

度重なる法難の中でも、法然上人は多くの弟子たちによりその教えは今日まで続いています。

現代に伝わる法然上人の教え

るために尽力し、聖光上人が継承した鎮西義と呼ばれる流派が今の浄土宗となりました。

法然上人の没後800年以上。現代もその教えが途切れないのは、お念仏が「誰もが救われる教え」であるたしかな証でしょう。

「わたしはあなた方と同じ場所にいます。高みではなく、最低の場所で暗闇の中で手探りしながら生きています。だが、こんなわたしでさえ救ってくださるのが阿弥陀仏、浄土の教えです。さぁ、あなた方もわたしと一緒に救われましょう」

という法然上人のことば、複雑な現代社会に生きる私たちにとっても、あたたかな温もりをもって心に響くのではないでしょうか。

時代を超えて人々の心を救う法然上人の教えを、これからも伝えて行きたいと思います。