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住職の日記

法然上人が生きた時代~武士の子が仏道を選んだ理由~

浄土宗の開祖法然上人は、度重なる法難の中でも教えを広めたエピソードが有名です。
法然上人が仏道を目指すきっかけもまた、ドラマチックなエピソードがありました。 本来は、有力な武士の子として生まれながらも、法然上人が仏道を志した経緯と、「専修念仏」に至る背景についてお話しましょう。

平安から鎌倉時代の変遷期

法然上人が生きた、平安後期から室町時代初期。日本では大きな変革の真っただ中にありました。

今年の大河ドラマ『光る君へ』は源氏物語の作者である紫式部を主人公にした平安時代の貴族中心の世界が舞台になっています。平安貴族が栄えた時代でしたが、政治の中枢では権力闘争や度重なる飢饉などが起こり少しずつ貴族の影響力が低下していきました。

代わりに台頭してきたのが、武士の勢力です。
このあたりは2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で描かれていましたね。

朝廷が力を失っていく一方で、各地の武士たちが権力を競って各地で戦乱が起こります。
いつ戦争が起きるかわからない、そんな時代に法然上人はこの世に生を受けました。

幼少期の悲劇、仏教との出会い

法然上人は1133年 に美作国(現在の岡山県)で有力な武士の次男の勢至丸(せいしまる)として生まれたと伝わっています。父親は漆間時国(うるまのときくに)、母親は御歳(おとし)と記録が残っています。父の時国は地域の治安維持や領地の管理を任される重要な役割を果たしていました。

有力な武士の子として、幼少期は安定した生活を送っていましたが悲劇は突然訪れます。
勢至丸が9歳の頃に、父親の漆間時国が敵対する武士に襲撃され亡くなってしまいました。

法然上人絵図【誕生寺蔵】

武士にとって父の仇討ちは当然の義務であります。
しかし、父の時国は臨終の際、「決して敵を恨んではならない。私が非業の死を遂げるのは、前世からの結果であり、因果応報なのだ。もし、そなたが敵討ちをすれば、相手の子供が、またそなたを敵と狙うだろう。敵討ちが幾世代にも続いていく。愚かなことだ。父のことを思ってくれるなら、出家して、私の菩提を弔い、自ら仏法を求めてくれ」と遺言を残しました。

時国が仇討ちを禁じた理由としては、まだ幼い息子を仇討ちのために戦いに巻き込みたくなかったこと、勢至丸は幼い頃から仏教に関心を持っていたため仏教の道を歩むことを望んでいたともいわれています。

勢至丸は母親の血縁を頼って、現在の岡山県と鳥取県の県境付近にある菩提寺という寺に預けられ、叔父にあたる勧覚という僧侶のもとで仏教を学ぶこととなります。

仏教の中心地、比叡山延暦寺での修行

勧覚の元で修行をしていた勢至丸は才能を見出され、一説では15歳のときに当時の仏教の中心地である比叡山延暦寺に送り出されます。

天台宗の僧侶として出家

そして持宝房源光という僧侶のもとで勉学を始めますが、その能力の高さを認められ、天台宗の教えに通じた学僧・皇円のもとへ。そこで髪をそり落とし、仏教者が守るべき生活規範(戒律)を授けられ、正式に出家し、天台宗の僧侶となりました。

先々で才能を認められ、皇円に僧侶としての地位を高め指導者を目指すことをすすめられます。
しかし、当時の比叡山は僧達も権力争いを繰り返すと言う堕落の極みにありました。上人は地位を得ることよりも父の供養と仏さまの教えをより深く学ぶために皇円の元を去り、比叡山の中でも聖僧のほまれ高い西塔黒谷の慈眼房叡空上人を訪ねて弟子となりました。

出世よりも仏道を究める道に進む

若くして将来を有望視されるほどの才能を持ちながら、出世よりも仏道を究める道を選んだ法然上人に感銘を受けた叡空は、「法然道理(あるがままの姿)」から「法然」、そして師であった源光と叡空から一文字をとって「源空」と命名しました。これが法然房源空の由来です。

法然上人は、周りから「知恵第一の法然房」ともてはやされました。
しかし、当人には真理を知りえた実感はなく、とうてい満足することはできませんでした。

教えを求める師もなく、納得のゆく教えを得ることもできない上人の苦悶の旅は延々と続きます。
43歳で山を下りるまでの二十五年間、主に黒谷にあって命がけの求道の生活を送りました。

だれもが救われるための教えを求める

平安から鎌倉時代の初期において、仏教は主に貴族や武士、僧侶といった上層階級のものでした。庶民には難解な教義や厳しい修行が求められることが多く、日常生活に密着した信仰の形態とは言い難いものでした。

法然上人が幼少期に経験したように家族や身内と戦で死に別れ辛く苦しい生活を強いられる人にとって、救いを求めるために仏教の厳しい修行をすることは現実的ではありませんでした。

法然上人は弱い立場の人々が救われるにはどうすればよいかの答えを求めて、比叡山を下り、京都や奈良の寺院をめぐり、各宗の学僧を訪ねて回りますが、納得できる答えは得られませんでした。

専修念仏への確信から生まれた浄土宗

比叡山に戻った法然上人は自身を、仏教理解の乏しい存在「凡夫」とし、荒廃した時代に生きる人々は等しく凡夫ではないかと考えるようになります。

法然上人は「どのようにすれば凡夫が救われるのか」という疑問を解決するために、黒谷の報恩蔵で引き籠もり、数多くの経典を読み解きました。

その中で出会ったのが、中国唐代の僧、善導大師による『観無量寿経疏』です。

この書物には、「一心にもっぱら阿弥陀仏の名をとなえ、いついかなることをしていても、時間の長短に関わらず、常にとなえ続けてやめないことを正定の業という。それは、阿弥陀仏の本願の意趣に適っているからである」という一節がありました。

知恩院蔵『法然上人行状絵図』巻七段五

この一節により、凡夫もお念仏を唱え続けることで、浄土へと至ることができるという確信を深めた法然上人はついに「専修念仏」にたどり着きました。

庶民に仏教が広まるきっかけに

1175年、法然上人は比叡山を下り、専修念仏の教えを広めるために活動を開始しました。
これが浄土宗の始まりです。

法然上人は「南無阿弥陀仏」と唱えることで誰もが救われると説き、多くの人々にその教えを広めました。彼の教えは、武士や庶民を問わず広く受け入れられ、浄土宗は急速に広まっていきました。

知恩院蔵『法然上人行状絵図』巻六段三

短期間に専修念仏の教えが広まった背景には、当時の社会が戦乱や政治的な混乱に見舞われており、人々が心の平安と救いを求めていたことがあります。法然上人の教えは、こうした時代背景において多くの人々の心に響いたと考えられます。

こうして法然上人は、幼い頃に残された父の遺言の通り仏道を究め、現代に受け継がれる浄土宗の祖として歴史に名を残しました。

法然上人の功績

法然上人の生涯は、幼い頃から試練と苦難に満ちたものでした。
しかし、上人は決して諦めませんでした。
そして、どんな人でも救われる道があることを信じ、探し続けました。

父の遺言を受け、仏道を選んだ上人の決断は、現在に於いては大変な功績といえるでしょう。
 武士としての誇りよりも、父の菩提を弔うこと、凡夫である自身が救われる教えを見つけ出し、そして同じ苦しむ人々を救わねばならないと言う使命感があったからこそ、広く念仏の御教えを広められたのでしょう。

ご自身を「凡夫」の一人として、生涯にわたり謙虚に仏道を歩まれた法然上人の功績は、今も私たちに安心をもたらしてくれます。

上人のご功績は、単に浄土宗を開宗したことだけではありません。念仏の元祖として、身分や能力の差を問わず阿弥陀仏の救いの道を示され、往生後は各弟子たちに引き継がれ、現在でも救いの道をお示し続け、人々に希望や心の平安をもたらされています。