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住職の日記

新興宗教と伝統仏教の信仰対象のちがい

昨今、改めて新興宗教に関する問題が注目されています。人々が信じ実践する、信仰に共感する人々が集まるという点では、新興宗教も伝統的仏教もちがいはありません。
「宗教は信仰対象に基づいて定義される」とするならば、宗教の核心である「信仰」について知ることで両者のちがいを見つけられるとひらめきました。
改めて話題になっている新興宗教と伝統的仏教の信仰の違いについて考えてみたいと思います。

新興宗教の信仰対象は神秘体験

新興宗教は伝統的な宗教とは異なる信仰対象を持っています。
1970年代から80年代にかけて台頭した新興宗教の共通点として、個人の成長や自己啓発を人生の目的に掲げることが多くありました。
自己啓発の「手段」として神秘的な力や超自然的な存在によって人生を変えることを求める傾向があります。

自身の経験に基づく信仰

たとえば、
新興宗教の教祖との対面した後に現実になる
→「予言の通りになった!」
→教祖の神秘的な力や超自然的な存在を信じる

教団が主催する瞑想会に参加
→瞑想会の中で不思議な体験をする
→神秘的な力や超自然的は存在を信じる

など、自分の経験が信仰に結びつくのが新興宗教の信仰のきっかけとなることが多くあります。

体験プログラムで信者獲得

また、1970年から80年代にかけて日本はいわゆる「バブル景気」の真っただ中でした。
そんな拝金主義の社会に疑問を持ち、個人の成長や自己啓発を求める人が多く存在した時代でもありました。

そのようなニーズに応じて、自己啓発やスピリチュアルな成長を目的とした教育プログラムを提供して信徒を集めることに成功した教団もありました。

体験をもたらす教祖が神格化

でも、ふつうに考えると… 「神秘的な体験」はそんなに都合よくできるものではありません。
そこで「神秘的な体験をもたらしてくれる教祖」の存在が大きくなります。

  1. 教祖(指導者)の教えを守れば、神秘体験ができる
    →不確かな「神秘体験」や「超自然的な存在」があると断定する
  2. 教祖の教義を広めることが願望達成の一歩である
    →「自己啓発」が教祖の教義を広めることに巧妙にすり替えられている
  3. 「神秘体験」が起こらないのは修行が足りないせい
    →→「神秘体験」や「超自然的な存在」が起きないのは個人の努力不足とし、もっと教えに忠実であることを求められる…1.に戻る…

こういったことを繰り返され、はじめは自己啓発や個人の成長を望んでいた人たちがいつの間にか「教祖の教えがなければ達成できない」と思い込んでしまうのです。

本来、自己研鑽とは地道で時間をかけてようやく達成できるもののはず。
しかし、その長く苦しい道のりを「神秘体験」でいっきにワープできる!と言われたら?
置かれている境遇が苦しい人ほど、すがってしまいたくなるのは理解できなくもありません。

その結果、教祖や教団の極端な信仰にも疑問を抱かなくなり、ときに過激な政治活動や社会運動に発展していった事例もありました。

どんな宗教でも、信教の自由があります。
しかし、社会規範を脅かす信念を共有し、熱狂的に行動を実践する組織になってしまうといわゆる「カルト宗教」ととなり社会を脅かす存在になってしますのです。

意図的に信徒の思考を奪う「洗脳」を行い、大きな事件を引き起こしたカルト教団がありました。もちろん平和的な活動を行う新興宗教も存在していますが、世間的には「新興宗教=カルト教団」のイメージが根強く残っています。

こういったことを繰り返され、はじめは自己啓発や個人の成長を望んでいた人たちがいつの間にか「教祖の教えがなければ達成できない」と思い込んでしまうのです。

本来、自己研鑽とは地道で時間をかけてようやく達成できるもののはず。
しかし、その長く苦しい道のりを「神秘体験でいっきにワープできる!」と言われたら?
置かれている境遇が苦しい人ほど、すがってしまいたくなるのは理解できなくもありません。

その結果、教祖や教団の極端な信仰にも疑問を抱かなくなり、ときに過激な政治活動や社会運動に発展していった事例もありました。

新興宗教とカルト教団

どんな宗教でも、信教の自由があります。 しかし、社会規範を脅かす信念を共有し、熱狂的に行動を実践する組織になってしまうといわゆる「カルト宗教」ととなり社会を脅かす存在になってしますのです。

意図的に信徒の思考を奪う「洗脳」を行い、大きな事件を引き起こしたカルト教団がありました。もちろん平和的な活動を行う新興宗教も存在していますが、世間的には「新興宗教=カルト教団」のイメージが根強く残っています。

平和的な新興宗教とカルト教団を区別して考えられるようにならなければいけないとも感じています。

伝統仏教の信仰は実践の中にある

一方の伝統仏教は、お釈迦さまが説いた教えを信仰対象としています。

教えを実践することを重視し、超自然的な力を積極的には求めません。
(不思議なことが起こることは否定しませんが、それを目的としてはいけないと言う考え)

仏教の教えは、人生の苦しみや死についての理解を深めることを目的としています。
仏さま教えに基づいた「四諦」「八正道」などの教えを実践することが重要視されています。

せっかくなので、四諦と八正道についてご紹介しておきましょう。

四諦

苦諦(くたい)

生きることは本質的に苦である(一切皆苦)
人が生きるということは、苦を背負って日々を過ごすことである

集諦(じったい)

あらゆる出来事は必ず何らかの原因によって起こる
苦の原因は煩悩である

滅諦(めったい)

煩悩を消すことで苦が滅する。
(煩悩を自分自身の努力で完全に断ち切る)

道諦(どうたい)

煩悩をなくし、悟りを得るための八正道を実践する。

八正道

正見(しょうけん)

正しいものの見方をする
(物事は常に変化して存在していると認識して見る)

正思惟(しょうしゆい)

正しい考えをもつ
(人や生きもの・自然を害さない、怒りにまかせた行動をしない、貪欲にならない考え方をもつ)

正語(しょうご)

正しいことばを語る
(相手を平和に、幸福にする言葉を伝える)

正業(しょうごう)

正しい行いをする
(他人の迷惑にならない。生命の妨げになることをしない)

正命(しょうみょう)

正しい生活を送る
(規則正しく生活し、人間の命に貢献する仕事をする)

正精進(しょうしょうじん)

正しい努力をする
(悪は起こさない、なくす。善を起こす、増大させる)

正念(しょうねん)

正しい自覚をする
(自分を見失わない、周りに振り回されない)

正定(しょうじょう)

正しい瞑想をする
(身体と呼吸と心を落ち着かせる)

要約すると「生きるとは苦労が多いが、できるだけ正しく生きよう」とじつに普遍的なことを説いていますよね。生き方の目標として、どんな境遇の方にも当てはまるのではと思います。宗派によって実践内容は異なるものの、仏教では仏の教えの実践が信仰表現の共通点です。

新興宗教が神秘体験や超自然的存在から自己啓発を求めるのに対し、伝統仏教は自らの行動で普遍的真理を受け入れ、信仰を見出します。

なぜ2020年代に入り新興宗教の問題が相次いでいるのか?

2023年の今、一斉にさまざまな新興宗教の問題が取りざたされています。 それぞれ異なる問題がありますが、今になって取り上げられ世間の注目を集めるには共通する理由があります。

  1. 日本経済の停滞の長期化
    世界的に見ても新興宗教は好景気時に活発になり、景気が停滞すると活動も低迷します。バブル終焉以降、長引く日本経済の停滞は新興宗教の停滞につながりました。
  2. 信者の高齢化
    新興宗教が台頭した1970年代、80年代に入信した信者コアの層の高齢化。信者の高齢化によりお布施額の減少や活動への参加率の低下が見られます。
  3. 新規信者の獲得難
    若年層の「宗教への無関心」や勧誘の手口がSNSで拡散されたことにより、新規信者の獲得が難しくなっている。
  4. 指導者(教祖)の代替わり
    新興宗教は教祖のカリスマ性で信徒を獲得できていたが、代替わりとともに求心力が低下するケースが多く見られます。
  5. 2世・3世信者の告発の増加
    SNSの発達で、個人の発信力が高まり、これまで外部には伝わってこなかった新興宗教の2世・3世問題が明るみになりつつあります。社会には衝撃をもって受け止められ、論争を引き起こしています。
  6. 政治への参加・影響力の行使
    宗教団体は、信者を動員して政治に影響力を与え、特定の政党や政治家を応援することで、政治的な力を高めている実態が知られるようになりました。しかし、このような手法は、政治と宗教の分離の原則に反するため、危険視されています。

など、宗教団体内の求心力の低下の影響で、これまで表に出てこなかった問題がいっきに明るみに出始めたと考えられます。

まとめ

私は、すべての新しい宗教に対して懸念しているわけではありません。
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、優れた仏教指導者が次々と現れたように、新たな素晴らしい宗教が登場することもあると思っています。

宗教は学問ではなく、信仰なのです。
教えの中には現代の科学で証明できないこと、時には矛盾に感じることもあることでしょう。
浄土宗の宗祖は法然上人です。法然上人は、私たちに阿弥陀仏による救済の道が示されました。
この教えによって救われる方もいれば、救われない方もいます。

私は、さまざまな経験を通じて浄土の世界観を信じています。法然上人の教えに従い、日々信仰を深め、精神的に安定した生活を送れていると自負しております。

宗教とは信仰を通し、信仰者の精神的な成長や人生の充実につながってこそ存在意義があるものだと思っています。必ずしも、すべての人に必要なものではありません。

しかし、宗教的な信仰を持つことによって、自分が苦しいとき辛いときに乗り越える為のきっかけになることや、心の支えになることがあるのも事実です。
だからこそ、私たち一人ひとりが信仰に対し理解を深め、信仰を深めていくことが、どんな大切だと思っています。