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住職の日記

現世で「悟る」ことはできるのか?法然上人の教えを元に考えてみた

僧侶になる前から、私はスピリチュアルな物事に興味を持っていました。 過去には、いろいろな書物を読んだことがあります。自然や歴史的な場所など、人々にとって特別なエネルギーがあるとされる場所を「パワースポット」と呼ぶのは、皆さんご存じだと思います。その中でスピリチュアルに関する情報に触れる中で、「ワンネス」という言葉も多く目にしてきました。

仏教にはワンネスに近いことばがたくさんある

ワンネスとは、日本語で「単一性、唯一性」と訳されますが「世界は一つにつながっている」という意味でとらえることができます。そして「ワンネス体験」とは、宗教的な体験だけでなく、スピリチュアルな体験も含め、人知を超えた存在や意識と一体化を経験することを指します。

仏教にも「ワンネス」と同じような意味のことばがあります。

  • 真如
  • 一如
  • 法性
  • 自他不二
  • 諸法空相
  • 諸法無我
  • 一無位の真人
  • 重々無尽縁起
  • 天上天下唯我独尊
  • 仏心とは大慈悲これなり

…など数えきれないほどあります。

私は「ワンネス」とは「涅槃」「解脱」「覚り」に通ずる体験と認識しています。 さて、「ワンネス」ことばを見聞きすることが増えたということは「覚り」を開いた人がたくさんいるということなのでしょうか?

覚りを開いたお釈迦さまですら、真の意味での悟りは亡くなって肉体から解放されたときとされています。果たして現世で「悟る」ことは可能なのでしょうか?

今回は、現世で悟ることは可能なのかを法然上人の教えを元に私なりに考えてみたいと思います。

ワンネスってどんな感じ?

「ワンネス」を経験したという人の体験談を調べていくと、表現はさまざまですが「ことばを超越した至高の体験」をしたという共通点があります。

あえて例をあげてみると…

「宇宙エネルギーと一体化した」

「すべてはひとつである」

「今、ここにすべてがある」

「神との一体化」「無条件の愛」

「純粋意識」

「あるがままで完璧である」

「光とひとつになった」

「真実の自分」

「目覚め」

などなど、どれをとっても「タダごとじゃない体験」なのは想像できます。

漫画『鋼の錬金術師』を読んだことがある方なら、「真理の扉を開いたとき」という言葉でイメージが湧くでしょう。登場人物が「真理の扉」を開けた瞬間に宇宙の森羅万象がいっきに頭の中に流れ込み、世の中のすべてを理解した様子が描かれています。

また、主人公が世界の真理を「全は一、一は全」と表現していたので、ワンネス体験もきっと同じような体験をするのかなと想像しています。

現世でワンネス体験はできるのか?

さて、ここからが本題です。

「現世でワンネス体験は可能なのか?」という問題です。

仏教をひらかれたお釈迦さまですら、真の意味での「覚り」は亡くなって身体から解放された時とされています。

「死」を美化するわけではありませんが、悟りを得られた聖者にとって死こそ最終の解脱となり、真の悟りを得るわけです。

仏教的に考えると究極の悟り(解脱)は輪廻転生からの解放ですので、輪廻転生の輪から抜け出したら…死後は存在しないということになります。

ただ、私たちの目指すところはこうした輪廻からの解脱だけではなく、お釈迦さまのような仏陀の存在になることです。そのため、大乗仏教の精神を理解することは非常に重要です。 現世で活きたままの悟りもワンネスもで全てと一体化したとしても、新たに「ワンネスを体験した自分」と「ワネスを体験したことのない他人」が存在を感じることでしょう。 皮肉なことに、ワンネスを体験したことで、これまでなかった境界線が浮かび上がるのです。 現世に肉体という器を持つ「個」として存在し続ける限り、真のワンネス(解脱)に到達することはできず、あくまで「概念としてのワンネスを限られた時間内で体験できる」に過ぎないのではないかというのが私の考えです。

「悟れなかった」法然上人の説く悟り

「悟れなかった」法然上人と言ってしまうと叱られそうですが、これは揶揄しているものではありません。

むしろ、長い間厳しい修行をして「悟れなかった」法然上人だからこそ「凡夫である私のような者は阿弥陀さまのお救いにあずかる(往生)しかない」という確信を得られたのだと考えています。

現世を生きる人々の「悟りをひらけない!」という苦悩から「お念仏を称えれば、だれでも救われる」という教えが人々の心を救ったのです。

法然上人は、私たちが住む迷いの多い世界と、すべての悩みから解放される極楽浄土を明確に区別しています。

現世で迷いがあり、悟りがひらけなくともこの世での生が燃え尽きるときに、念仏の功徳をもって極楽浄土に導いていただく。一切の苦悩のない世界で、悟りをひらき仏さまになるために修行をしましょう。

というのが法然上人の教えでした。 つまり、現世では「悟りがひらけない」と苦悩しなくていいと説いてくださったのです。

現世を生きることは社会に生きること

「すべてはありのままでよい」というのは、とてもすばらしい考え方だと思います。

しかし、それは「苦難も抵抗せずに受け入れるべき」「問題は解決しなくてもかまわない」というものではありません。 むしろ、自分のため周囲の人のために理想に向かって歩んでいくことが大切だと思います。

私の好きな言葉に一つに道元禅師の言葉で「自未得度先度他」(自らは未だ救いを得ずして、先に他者を救いに至らしめる)」とありますが、この言葉が大乗の菩薩の精神だと思うのです。

『鋼の錬金術師』の主人公は「真理の扉」を開きあらゆる英知を手にしましたが、最終的には「不完全であることが人間の証」と「真理の扉」の番人に”真理”を返して錬金術師としてのすべての力を失います。それが、人間として生きる覚悟であり選択でした。

作中、天才的な錬金術を駆使して戦ってきた主人公が、最終回では一人の人間として、「自分にできることで人に幸せを返していく」という結論を出した姿が読者の感動を呼びました。

一人の不完全な人間として生きる主人公の生き方と、法然上人が説かれた、煩悩にまみれ愚かである人間観の共通点を見た気がします。

仏教ではこの世は「一切皆苦」と説きます。 悩みは尽きないこの世界に私たちは生きておりますが、法然上人のことばと阿弥陀仏のお救いを信じて、現実社会で周囲の方々や社会のためにジタバタしてみるのもいいなと私は思っています。

まとめ

今回は、話題の「ワンネス(悟り)体験」について考えてみました。 個人的には宗教体験やスピリチュアル体験も含めて、人知を超えた不思議な体験があることは信じています。

そういった不思議な体験に感動したり、信仰をもつことで心が穏やかになることもあるでしょう。しかし、そういった神秘体験を追い求め、現実の生活がおろそかになってしまうのは一種の現実逃避ともいえます。自分一人で実践し追求する分にはいいかもしれません。でも、誰かの言いなりだったり、対価としてたくさんのお金を払ったり、身近な人に心配をかけてまで体験するべきことかは疑問です。

他人の語る特別なワンネス体験(悟り)にとらわれるのではなく、大乗の菩薩の精神を持って現実の社会で自身のためだけではなく、家族のため、周りの方々のためにできることから始めていくことが大切だと考えます。

そのためにも、自らの信仰を深めていくことが重要なのではないかと思います。