人生において大切な人を喪った経験は、だれしもお持ちでしょう。
「大切な方を喪う」という経験は、たとえそれが人生において何度目かのことでも、それぞれ別の悲しみや辛さがあることを、僧侶として死に触れるときにいつも感じています。
心理学では、大切な人を亡くしたときにおこるさまざまな反応を「グリーフ(悲嘆)」と言います。死別による悲嘆を克服するのは、故人の心理的作業が必要になるという考えがあります。
葬儀を終えても心身の不調を感じる方が多く、そして大半の方がそんな自分を責めてしまう傾向にあります。
「早く悲しみを乗り越えなければ」
「日常の生活に早く戻らないといけない」
そんな思いがよりいっそう辛い心の負担となることがあります。
今回は、身近な大切な人を亡くした人におきる「グリーフ(悲嘆)」の症例と仏教の教えについてお話したいと思います。
心に受けた痛みを認めてあげることから
たとえるならば、身近な人を亡くすということは「心に大ケガをする」ということ。
身体的なケガであれば、自分も他人もそのケガの程度の深刻さを共有できます。
「私はケガをしているから、傷が痛むのは当然だ」
「あの人はケガをしているから、負担がかからないようにしてあげよう」
身体的なケガを負ったなら当人もその周囲の人も傷が癒えるまで、適切な行動をとりやすいものです。
しかし、心のケガは外からはわかりにくいもの。
自分でも傷の深さは測れないかもしれません。そのため、他人のことばに思いがけず傷ついたり、自分でもコントロールできない怒りや悲しみに心を占領されてしまうこともあります。
大切なのは「自分は心に大ケガをした」という自覚をすること。
心に受けた痛みを「だれもが経験すること」「克服しなけらばいけないこと」と思わずに、
まずは痛みを痛みとして認めてあげましょう。
さまざまなグリーフ(悲嘆)の現れ方
大切な人を亡くした後に起こる反応はさまざまです。理由がわからなければ余計な不安や苛立ちがおこります。
しかし、それが身近な大切な人を亡くした人におきる「グリーフ(悲嘆)」の症例とわかっていれば「心を癒すために必要なこと」と受け止められるでしょう。
さまざまなグリーフ(悲嘆)の現れ方をまとめてみました。
こころの変化
- なにも感じられない
- 自分を責めてしまう
- 急につらさを感じる
- 亡くなったときのことをあまり覚えていない
- 強い怒りを感じる
など
身体の変化
- 体がだるい
- 眠れない
- 食欲がない
- 疲れやすい
- 持病が悪化する
など
行動の変化
- だれにも会いたくない
- 集中力が続かない
- 落ち着きがない
- 故人との記念日(誕生日や命日)が近づくと気持ちが沈む
など
こんなときだからこそ周囲を頼って
「葬儀や法要などを自分が責任をもって行わなければ…」と感じることもあるでしょう。会葬者への配慮も必要かもしれませんが、人に任せられることは任せる、助けを借りるなどしてあなた自身の負担を軽減するように考えてください。
親族・親戚、葬儀社のスタッフ、僧侶と相談できる相手はたくさんいます。
一人で抱え込まずに周囲に相談してみてください。
心に大きなケガをしているわけですから、無理をせずできる範囲のことだけをして過ごしてください。
「喪に服す」というのは宗教的観念もありますが、一番の意味は「社会の義務から解放されて、心を休める」ための期間だと私は思っています。
今は特別な心理状態にあることを自覚する
大切な方を亡くした後、自分が自分でないような、どうかしてしまったのではないかと感じることもあるでしょう。
突然涙が止まらなくなる、カンタンなことが決断できない、自分でも理不尽だと思うのに他人を責めてしまう…など、思考や感情がコントロールできない不安を感じる方もいらっしゃいます。
しかし、これはあなたが悪いわけでも、あなただけに起きていることでもありません。
先ほどご紹介した「グリーフ(悲嘆)」の現れであり、大きな喪失を経験したときに起こる人間共通の心身の反応です。
今はそうしたことが起こってくる特別な”時”の中にいるのです。
このような状態は、亡くした人への愛情が深かったという”しるし”でもあります。
ですから、今まで経験したことのない感情の揺れや心身の不調を感じても「なぜ?」「自分が悪いからだ」とは考えず、当たり前に起こることだと受け取りましょう。
自分を責めたりせずに、発露される感情も心身の変化もそっと受け入れるようにしましょう。
甘えることを許す
大切な人を喪った辛さ悲しみを誰かに聞いてもらうことが癒しにつながることがあります。
「自分の話を聞いてほしい」「ただ聞いてくれるだけでいいから」と誰かに頼んでみるのもよいでしょう。または、逆に「しばらくの間、そっとしておいてほしい」と伝えることもできます。
身近に話を聞いてくれる人がいなければ、カウンセリングを受けたり、いのちの電話のような電話相談を利用するのもいいでしょう。
「話を聞いてほしい」「側にいてほしい」以外にも、家事や仕事などふだんは自分がやっていたことに人の手を借りるなど物理的な助けを求めることで、負担を減らせることもあります。
「しなければならない」とう考えはこの際おいておき、自分を甘やかすこと他人に甘えることも許して、少しでも自分の心身が楽に感じられるようにしてみてください。
仏教における死別の教え
仏教では大切な人との別れのつらさを『愛別離苦』と呼んでいます。
中でもよく知られているのが、キサー・ゴータミーという女性の逸話です。
ある街にキサー・ゴータミーという女性がいました。
彼女は結婚してかわいい男の子を授かりましたが、その男の子は幼いうちに亡くなってしまいました。彼女は息子の死を受け入ることができずに、冷たい亡骸を抱いて「誰かこの子の病を治してください」「誰かこの子に薬をください」と言って街をさまよっていました。
見るに見かねた人が、彼女にお釈迦様のところへ行くように助言したのです。
お釈迦様は彼女にこう語りかけました。
「よくここまで来ましたね。この子の病を治すにはケシの実が必要です。街に出て4、5粒もらってきなさい。ただし、そのケシの実は一度も死人を出したことのない家のものでなければなりません」と。
ゴータミーは街に出て今度は一度も死人を出したことのない家を探しました。
しかし「一度も死人を出したことのない家」はどこにもありません。
彼女は歩き回るうちにお釈迦様のことばの真の意味を悟り、わが子の亡骸を墓地に葬ることができました。
そんな彼女にお釈迦様は尋ねました。
「ゴータミーよ、ケシの実は手に入りましたか」と。彼女は答えました。
「お釈迦様、もうケシの実は必要ありません。死人を出したことがない家はどこにもありませんでした。どうか私に道をお示しください」と彼女は仏弟子になりました。
この逸話のポイントは、平静を失ったゴーダミーに対しお釈迦様が哲学的なことばで諭すのではなく、行動させ自分で気づかせたところです。
悲しみで平静を失っている彼女に「諸行は無常である」「生まれたものは必ずいつか滅する」と説いたところで、彼女にとって役立たないことをお釈迦様はご存知でした。
彼女はケシの実を探して歩きまわるうちに自ら悟ったのです。
お釈迦様は、ことばではなく彼女が悟りに至る状況をおつくりになったのでした。
また、この話はわが子のために必死にケシの実を探す彼女を、街の人々は同情してあたたかい心で受け止めたことでしょう。人々のやさしさに触れて、彼女の心がほぐれていったという解釈もできるでしょう。
ずっと昔の話のはずですが、大切な人との死別のつらさを時間と他の人からのやさしさに触れることで少しずつ癒されるというエピソードは現代にも通ずるものがあります。
希望を持つことを忘れずに
大切な人を喪ったとき、誰しもゴーダミーのように一時的に平静を失う可能性があります。
それは『愛別離苦』としてどんな人の身の上にも起こりうることです。
心に負った傷は、完全に消えることはないかもしれません。
しかし、その痛みは時とともにかならず弱まっていきます。
あなたの周囲の一見平気な顔で過ごしている人々も、過去には大きな悲しみを経験してきたことでしょう。でも、こんなことばも深い悲しみにある時には、他人の気休めにしか感じられないかもしれません。
しかし、いつまでもこの辛く悲しい状態のままでいることはありません。
元の状態には戻れなくとも、深い悲しみを経験したあなたには明るい未来も待っているはずです。
今すぐ、でなくてもかまいません。
「いつかきっと」と希望だけは忘れないで過ごしていただきたいと思います。
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