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住職の日記

お経に書いていることはなに?

突然ですが、みなさんはどんな時に「幸せ」を感じますか?
人それぞれの感じ方がありますが、日常を振り返ると幸せを感じる瞬間は一つではありませんよね。今日は「幸せ」という言葉の意味と、仏教の教えがどう結びついているのかをお話ししたいと思います。

幸せの語源

「幸せ」の「幸」という文字と、「辛い」の「辛」という文字は、見た目がとても似ています。一本の線が足りないだけで、その意味は大きく変わります。 この一本の線は、私たちの心の状態や行動の違いを表しているのかもしれません。辛い時でも自分で一本の線を引けたら、その辛さが「幸せ」へと変わるののだという例えもあります。 漢字では、「幸せ」と「辛い」は自分の心の在り方次第ということでしょうか。

さて、今では「幸せ」と表記していますが語源をたどるともともとは「仕合わせ」だったと言われています。もともとの日本語では「する、行動する」ことをともに「合わせる」というところから来ていると考えられます。中国発祥の漢字では自分の心持ち次第だったのに対し、日本人は人と行動(心)を合わせることが幸せを感じると考えていたのではないでしょうか。

「する、行動する」ことが幸せの一歩と考えると、水前寺清子の「幸せは歩いてこない だから歩いて行くんだよ」(365歩のマーチ)もより奥深い歌詞に感じます。

友達をどう作るかわからない若者たち

さて、最近の若い人たちには「友だちをどう作っていいかわからない」という悩みを持つ人が多いそうです。昔にくらべて、いつでも連絡を取り合ったり、画像や動画で体験を共有して友情が育みやすいように思えますが、悩みは深刻なようです。

いまはSNSのアプリで「友だちになる」ボタンをクリックするだけでネットワーク上では一瞬で友だちになれます。でも、人間としての関係性で考えるなら「今日から友達になりましょう」と宣言しただけで、心が通じ合うものではないですよね。同じ方向を向いて何かを共に行なうなかで、一緒にいる喜びが友情として生まれてくるのです。

実際には会ったことがなく、本音を言っているかもわからない「友だち」が多くなると、「ほんとうの友だちはなんだろう?」と不安になってしまうのかもしれません。「仕合わせ」が人と人の関わりから生まれるというなら、会って話せる身近な人と一緒になにかしてみてはいいのではないかと思います。

仏教の教えと幸せ

さて、私は時折仏さまの教えについて講話をする機会があります。 その際に「仏教のお経には何が書いてあるのですか?」と尋ねられ、私は一瞬答えに詰まりました。

ご存じのように、お経にはたくさんの種類がありさまざまな教えが書かれています。僧侶であってもすべての経典を読破している人は多くありません。「とても一言では説明できない」と正直に答えてしまいました。

せっかく仏教に、仏さまの教えに関心を持っていただいた方に「説明できない」ではいけないとその後も考え続けて気が付いたことがあります。

宗派や解釈は違えど、お経に書いていることは「本当の幸せになる方法」が書かれているのだと気づきました。釈迦さまの時代、仏弟子たちにとっての幸せは、お釈迦さまと共にいること、お釈迦さまの教えを仲間と共に聞くこと、そしてその教えを実践することだったはずと思ったのです。

お釈迦さまと志を共にする仲間と共に修行に励むという時間や体験が、彼らにとっての幸せだったのだと思うのです。

そしてお釈迦様の教えも、突き詰めていけば「最高の幸せに至る道—生老病死を超えた真の幸せに至る道」だったのではないでしょうか。

「すべてのものは生滅し変化している」

「『我』は存在しない」

「一切は空である」

「永遠の仏がいる」 「心がすべてを生み出す」

という心の在り方や瞑想や他者への奉仕という実践は、詮ずるところ、最高の幸せ(覚り、涅槃)に至るための道です。

これらを世に残したお釈迦様が亡くなられたあともこれらの教えは永遠の灯火となって、私たち仏を導いています。

浄土宗の教え

8万4千といわれる仏教の教えの中でも、私たちが自分の死後歩むべき道を示しているのが、阿弥陀仏の浄土の教えです。「念仏を称えよ。それによって死後、阿弥陀仏の西方極楽浄土に往き生まれ、最高の真理を覚りなさい。」と説かれています。

以下は『阿弥陀経』からの一節で、極楽浄土への往生(おうじょう)についての教えを解説しています。

「浄土の再会、甚だ近きにあり。今の別れはしばらくの悲しみ、春の夜の夢のごとし。」 舎利弗よ、衆生(極楽のありさまについて聞く者)は、まさに願をおこしてかの国に生まれんと願うべし。 所以はいかに。 かくの如きもろもろの上善人とともに一処に会うこと得ればなり。ただし舎利弗よ、(念仏以外の)少なる善根・福徳の因縁をもってかの国に生るることを得べからず。(阿弥陀経)

極楽浄土は一時的な別れを超えて再会できる場所であり、素晴らしい人々が集まる場所です。しかし、その極楽浄土に生まれるためには、念仏を唱えることが不可欠であり、少しの善行だけでは不十分であると説いています。

念仏者にとって、死はすべてを奪うものではなく、本当の豊かさ、真の幸せを知るための貴重な機会です。令和6年は、浄土宗開宗850年にあたります。キャッチコピーは「お念仏からはじまる幸せ」。共にお念仏を称え、共に浄土に生まれ、やがてはお釈迦さまが見た覚りの世界を共に眺めることができるでしょう。

まとめ

私たちの「仕、合わせ」、真の幸せに向かう第一歩は、行動することからはじまります。 一人ではなく、人と人の関係から生まれると思うと他者への思いやりがいかに大切かがわかります。「どうして自分は幸せになれないのか?」「ほんとうの友だちがいない」と一人で思い悩む前に、まずはだれかと関わることも試してほしいと思います。

また、人生の幸せについて考えるならばお釈迦様や阿弥陀様の教えが「仕、合わせ」へとが導いてくださります。世の中には戒律や修行が厳しい宗派もありましが、浄土宗の教えでは阿弥陀様のお名前を称えるだけという非常にシンプルなものです。

当山では毎月25日に「お念仏の会」を開催しています。 十念寺友の会の方はもちろん、初めての方も歓迎しております。 ぜひ、一緒に称えてみませんか?

なむあみだぶつ