信じていないようで、深く根ざしている——日本人の宗教観宗教を信じていますか?と聞かれたら「あなたは宗教を信じていますか?」と聞かれて、戸惑ったことはありませんか? 特に外国の方から聞かれると、「いや、私は無宗教です」と答える方が多いかもしれません。 けれど本当に、私たちは何も信じていないのでしょうか? この問いをきっかけに、日本人の宗教観について、あらためて考えてみたいと思います。 無宗教に見えて、暮らしに根付く信仰心仙台市の十念寺でも、地域の方々から「私は信仰心はありませんが…」という前置きをよく耳にします。 けれどその方が、お盆にはお墓参りをし、お正月には初詣に出かけ、日々仏壇に手を合わせている姿を見ると、私は思うのです。 その行いこそ、まさに宗教心ではないか」と。 ![]() たとえば、食事の前に「いただきます」と手を合わせる。この所作には、命をいただくことへの感謝が込められています。これは形式的なマナーではなく、見えない命のつながりへの祈りの表現です。 外国の方が見ると「複数の宗教が混在している」と感じるかもしれませんが、日本人にとっては自然な文化の一部。神道、仏教、キリスト教の行事が共存する国は世界的にも珍しいと言われます。 日本人の暮らしには、さまざまな宗教行事や風習が自然と入り込んでいます。 八百万の神に見る、日本人の宗教的感性日本人の宗教観の特徴のひとつに、「重ねる」という感覚があります。 仏教・神道・キリスト教が同じ生活の中に存在しても、違和感を抱かないという不思議。 たとえば、ある方が言いました。 「家では仏壇に手を合わせるけど、毎年クリスマスは家族で教会のミサに行くんです。音楽が好きだから」。 これを外国人の方が見ると、「どうしてそんなにいろいろな宗教が混ざっているの?」と感じるかもしれません。 けれど日本人にとっては、「大切にしたいもの」がそこにあれば、自然に受け入れていく、そんな柔らかさがあるのです。 これは、八百万(やおよろず)の神々の世界観が根底にあるからかもしれません。だから、相手の信仰を否定せず、重ねてゆくことができるのです。 「信じる」というより「生きる」に近い![]() ある外国人の友人が、日本の葬儀に参列したときにこう言ったそうです。 「みんな仏教徒じゃないって言ってたのに、ちゃんと手を合わせてたね。不思議だよね」 確かに、日本人は「信仰しています」とはあまり言いません。 でも、人が亡くなったときには自然と手を合わせて、「どうか成仏してください」と祈る。 そこには、目に見えないものへの敬意、いのちのつながりを大切にする心があります。 宗教というと、「信じるか、信じないか」という対立のように聞こえるかもしれません。 けれど本来、宗教とは「どう生きるか」を照らす灯のようなもの。 誰かを信じること以上に、「どのように自分を整えて生きていくか」に軸があるのです。 水が土に染み込むように、私たちの暮らしに宗教は溶け込んでいます。 日本人にとって、信仰とは“杖”ではなく、“見えない土台”なのかもしれません。 「宗教は特別なもの」ではありません「宗教」と聞くと、どこか堅苦しく、特別な人が関わるものだと思われがちです。 けれど実は、もっと身近で、もっと自由なものです。 仏教にはたくさんの宗派がありますが、どれも共通して 「いのちを大切にする」 浄土宗では、阿弥陀さまのご本願を信じ、お念仏を称えることで、どんな人でも救われる道があると説いています。 「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とお称えするその声に、特別な資格や知識は必要ありません。 お念仏は、知識よりも、気持ち。 仏さまと、いのちへの感謝を込めて称えるだけでよいのです。 十念寺のお念仏の会へ、気軽にどうぞ![]() 宗教というと、敷居が高く感じるかもしれません。でも、浄土宗の教えは「誰でも、どんな時でも、救われる道がある」と説いています。十念寺では、どなたでもご参加いただける「お念仏の会」を毎月開催しています。 次回は、2025年5月26日14時から、本堂にて開催いたします。 「なんとなく、行ってみようかな」その気持ちだけで、十分です。 宗教は、敷居が高いものではありません。 心を整え、今を丁寧に生きていくための、日常の中の小さな習慣です。 ご興味のある方は、ぜひお寺へ足を運んでみてください。 仏さまとのご縁が、きっと静かに、そしてあたたかく、あなたを包んでくれるはずです。 |
住職の日記